なんばエリア情報
戎橋筋商店街情報
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商店街の歴史
明治時代
―文明開化はベルの音とともに―

中座付近の芝居見物
「はっすじ」の名前が定着したえびすばし筋
明治18年12月、一面に広がる難波の青ネギ畑の中を蒸気機関車が走り抜けていきました。南海電鉄の前進である阪堺鉄道の難波駅が誕生し、難波-大和川間7.6キロを約25分で結びました。
初乗り列車には関係者やお役人、新聞記者など約500人が乗り込み、難波駅では花火が打ち上げられ、 盛大なパーティーも開催されたといいます。明治20年5月には、堺までを結ぶ9.98キロの全線が開通 、国際港・堺と商工業盛んな大阪を結ぶ重要な鉄道網が完成し、人々の行動範囲は難波から大阪南部へと広がっていきました。
難波駅から心斎橋へまっすぐに通じる「えびすばし筋」は、この時から巷では「はっすじ」と呼ばれていました。「橋の筋」という意味の一般的な名称ですが、他のどこを指すのでもなく、えびすばし筋のことをいいました。この呼ばれ方は、つい最近まで使われていました。

難波駅前の市電

初代目ナンバ駅

明治20年頃の戎橋筋
風情とにぎわい
戎橋は明治11年までは木製で、風情と趣がありました。道頓堀川南岸には柳が隆々と川に垂れ、浜地は芝生で、川の水はきれいで、飲料水として飲まれていたほどでした。
川には芝居客を送る屋形船が悠々と浮かび、陸では芸妓(歌、踊り、三味線などの芸で酒席に興を添える女性)を乗せた花駕籠の往来がありました。
「水の都」から「煙の都」へと近代的発展を遂げていった大阪に、成功を夢見た多くの人があちこちから集まってきた時代です。
えびすばし筋では、道頓堀の芝居帰りの客や花街の芸妓がブラブラ歩いて小間物やみやげ物を買っていく姿が。また、心斎橋筋から歩いて、えびすばし筋につく頃にはお腹がすいて「はっすじで何か食べよか」という人々でにぎわったことでしょう。
高価なおしゃれ小物の店が並ぶ心斎橋筋に対して、えびすばし筋の方は手頃な商品が多かったようです。この頃、呉服・婦人雑貨の「岸田屋」、和装小物の「かわこ」、かまぼこの「大寅」など多くの店が開業しています。
明治21年(1888)、えびすばし筋の南入口に、南地五花街の芸鼓の歌舞練場として南地演舞場が建設されます。ここで、明治30年2月15日、フランスのリュミール兄弟製作による「シネマトグラフ=映画」が上映されました。当時は一般席10銭・特別席20銭の入場料で、日本で初めて興行として映画が上映され、以来この地が日本の映画興行発祥の地と言われています。
大火で全焼したミナミ界隈
明治45年1月、ミナミに大きな災難が降りかかります。「南の大火」と呼ばれ、発火場所は難波新地にある百草湯という銭湯。煙突から吹き出した火の粉が、強い西風に煽られて勢いをつけ、消防馬車が消火活動にあたったものの、大火事は一昼夜に及びました。難波新地から千日前、そして谷町へと広がり、ついには生国魂神社の鳥居まで焼けおち、ミナミ一帯が焼け野原となりました。
しかし、この災難にくじけることなく、ミナミの街は復活します。
千日前通りに市電が開通し、大正2年、千日前通りに面して「楽天地」と名づけられた一大娯楽施設が現れます(今のビッグカメラの場所)。

南の大火で出勤した消防馬車

南の大火で廃虚と化した千日前

楽天地
◎コラム 映画興行発祥の地
南地歌舞練場はその後、南街会館、そしてTOHOシネマズなんばへと、映画の殿堂としての歴史が受け継がれていきます。阪急グループや宝塚歌劇団の創業者である小林一三氏による碑文が、1階エレベーターホール脇に残されています。そこには、この地が映画興行発祥地と知らずに南街会館を企画したことがつづられています。

お店のニュース
戎橋から徒歩10分以内のミナミのエンターテイメント
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