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戎橋筋商店街情報
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商店街の歴史
江戸時代 ―道頓堀、戎橋の誕生―
戎橋の誕生
元和元年(1615年)、豊臣氏が大阪夏の陣で滅んだこの年に、安井道頓(成安道頓、大阪夏の陣で戦死)、安井道卜らによって道頓堀川が完成し、ほぼ同時に町衆たちによって「戎橋」が架けられました。
橋が完成した時、人々は大いに喜び、お祝いしたことでしょう。というのもこの橋筋は、今宮村の戎神社へとつながる重要な参道であったからです。大阪の商人にとって、商売繁盛の神様・今宮戎にお参りすることは、昔も今も変わらない大事な行事でした。人々は縁起をかつぎに「えびすばし筋」を通りました。
「戎橋」の名前の由来は「戎」の名が表すとおり、今宮戎神社の「戎」からつけられたという説のほか、正月になるとこの橋で西宮戎神社(兵庫県)のお札が配られたからという説もあります(摂津名所図会大成)。いずれにせよ、商売繁盛のえべっさんに由来する、めでたい名前であることは間違いありません。
今宮戎の十日戎(1月9~11日)が定着した江戸時代には、お祭りの日には市中の商家の多くが店を閉めるほどにぎわったといわれます。多くの人々がえびすばし筋を通って、一面のネギ畑だった難波村を今宮戎神社にむかう情景が目に浮かびます。その参詣客を相手にお店が立ち並んだことが、戎橋筋商店街のルーツといえましょう。

芝居町としてにぎわう道頓堀・戎橋周辺
芝居興行が勘四郎町(現大阪市中央区南船場)から道頓堀界隈に移され、幕府の許しを得て、からくり人形、歌舞伎踊り、操り人形(人形浄瑠璃)などの芝居小屋が道頓堀に集まり、芝居町として発展していきます。そして、エネルギッシュな商人の力を背景に、上方(京都・大阪)を中心に元禄文化が栄えました。
道頓堀には通り一面に行燈や提灯がつけられ、空が見えないくらいのたくさんの旗がたなびき、通り中に華やかな気分が漂い、道行く人は芝居見物に心おどったことでしょう。
芝居の見物客に、チケットの手配、休憩や着替え、食事の場所の段取りまで行なう、芝居茶屋という上方独特のサービス産業がおこり、道頓堀川ぞいに立ち並びました。江戸末期に48件だった芝居茶屋は明治10年頃には63件に増えています。今では一軒だけ、芝居茶屋の名残の建物が道頓堀でみられます。
その頃、商店のオーナーである旦那衆の遊び場は格式の高い新町(西区)で、番頭や手代の遊び場は戎橋南詰西の九郎右衛門町や北詰東の宗右衛門町でした。また、戎橋北詰西の久左衛門町には米相場市がたち、道頓堀川には米を積んだたくさんの船がつながれ、あたりには船頭たちが利用する宿屋や店屋が軒を並べ活気を見せました。
芝居を見に訪れる人々、船遊びを楽しむ旦那衆、米相場に集まる商人たち・・・。戎橋はいつも人の往来が絶えなかったことでしょう。
「戎橋」から「操り橋」へ、そして再び「戎橋」へ
このように、ミナミの活気が渦巻く戎橋を、大切な町橋として維持管理してきたのが町衆です。戎橋は、元禄7年(1694年)から明治11年に鉄橋になるまでの184年間、13回にわたって修理や架け換え工事が行われています。その費用は、橋本町(橋詰めの四つの町)を中心に集められ、町衆が協力して工事を行いました。橋を維持する仕事は、橋の掃除から行き倒れ人の後始末まで、何でも含まれたが、これも町衆が担っていたのです。
こうして大事な橋は変わらずに維持されてきましたが、橋の名は何度も変わりました。芝居興行全盛の元禄時代初期には、人形浄瑠璃が大人気だったことにちなんで「操り橋」と呼ばれ、元禄4年(1691年)には再び「戎橋」という名に戻っています。ところが、明治維新直前の慶応3年(1867年)、幕府は「永成橋」という名に改めます。幕府が大阪城で外国使節を歓待するために、外国人をさげすむ意味であった「夷」や、それに類する「戎」の文字を国中から排除したからでした。でも、その名前に人々はなじまず、一時「猿橋」と呼ばれたりもしましたが、結局、明治3年に長年慣れ親しんだ「戎橋」の名が復活。それ以後、この名が変わることなく受け継がれてきました。
◎コラム 戎橋と碑文
現在の戎橋は、平成19年11月に完成しました。中心部は幅が18メートルもある円形の広場のようです。橋の裏側のLED照明が川面に光の輪を映しだし、また大正時代の橋の高欄が、同じく橋の下に保存・設置されました。 完成を記念して、ミナミの町衆は、橋のたもとに2つの銘板をとりつけました。 南詰の方には、戎橋にちなむ、大阪川柳の作品が紹介されています。
- 戎橋 白粉(おしろい)紙を 散らす恋 (水府)
- 宝恵駕(ほえかご)に 雪がちらつく 戎橋 (よしの)
- 友だちは よいものと知る 戎ばし (水府)
- 大阪は よいところなり 橋の雨 (水府)
北詰の方には、大阪市南区出身の洋画家・小出楢重が戎橋を描いたイラストを紹介しました。文豪谷崎潤一郎の「蓼喰う虫」の挿絵に使われています。
この橋が、「飛び込み」や「引っかけ」の場所では決してなく、大切な人との出会いや惜別、楽しかったミナミ観光・・・人々の心に残る場所として、新たな歴史を刻んでほしいと願ってとりつけました。
さて、岸本水府とは、大阪で育ち、広告代理店勤務のかたわら、昭和5年、大阪で川柳結社を始めます。“雑俳”と軽視されていた川柳のイメージ刷新と地位向上に尽力し、また浪花情緒の句をさかんに詠み、「誰にでもわかって、誰にも作れぬ句を作れ」と語った水府の句を、作家の田辺聖子さんは、「水府の川柳はみな品たかく、それにふんわりした手ざわり、加えて大阪弁でいう〈はんなり〉したはなやぎがある。」と評されています。(田辺聖子『道頓堀の雨に分かれて以来なり~川柳作家・岸本水府とその時代』(中公文庫))
ところで、岸本水府が手がけた代表的な商品宣伝にグリコと福助があります。「新聞広告の傑作といわれた「豆文広告」を考案したのも水府であり、「タコタコアガレ グリコヲタベテ 三百メートルアガレ」という名コピーや、OSK歌劇団の春のおどりのテーマ曲を残しています。

平成の戎橋 渡り初め
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